3/17/2016

雑談日誌 祖母みわ

ずっと以前の事ではあるが、私のもう一つのブログ(現在は更新停止)”風が見える時”に掲載した事がある私の祖母の話を再度したいと思う。
祖母みわは、私の父方の母であり、病弱で入退院を繰り返していた私の母に替わって幼い私を育ててくれた一時期がある。

祖母の出生地は東北の片田舎であった。
当時の正義に燃え冒険好きな青年が遠い地にあこがれて旅立つ意気込みに惚れ込み、自分も女の身で何か奉仕ができないものかと、そうして知り合ったのが祖父の喜八郎であった。

仙台の菓子問屋の長男で有った喜八郎は商家に育ったので読み書きには達者であったが、自分の弟がその当時には珍しい海外進出を夢見、カナダへの渡航をして行ったのが大いに刺激となり、家業の菓子屋を継ぐことを拒み、明治のその頃、政府が募った蝦夷改革政策に賛同すべく、教育師範員として北海道に渡ったのであった。
その数か月後には、みわも独り北海道に渡り、増毛付近の漁村で小さな学校を開いた喜八郎の手助けをする事となった。
こうして始まった私の祖父母であったが、私がここに書こうと思った事はこの始まりの事ではなく、二人の終わりの話がしたかったからなのだ。

祖母みわは気高く、気丈な人であった。そのため決して親族内では評判の良い人とは云えない。
真実この長年に渡っても殆どの伯父、叔母、その子供達もが祖父母を慕っているなどとの話を聞いたことはない。
私の母も例外ではなく、それなりに姑争いの中にいたが、孫の中で唯一私を引き取って育ててくれた期間があったのが心の中に優しさとして残っていたものか、私の事は一番末っ子と云う事もあってか「のっちゃんが、一番可愛いねぇ」と会うたびに祖母は目を細めて言ったものであった。

これぞロマンスと人は云うだろうか。この祖父の命日が祖母の命日でもある。
事故か何かで同日に他界したわけではなく、90才で他界した痴呆症を数年病んだ祖父喜八郎の長年の介護に勤しんだに83才の健常であった祖母のみわは、喜八郎の葬儀に訪れてくれた事を感謝し、親族や多くの弔う人々に丁重な挨拶をした後、その場でまた自らも息を引き取るという劇的なラストシーンを迎えたのであった。
祖父喜八郎の葬儀に集まった人々がは、その葬儀が祖母みわとのダブル葬儀と成ったことに皆驚いた。

当時私は既にカリフォルニア州に在住の身で、この葬儀での話は後日、母から知らされたことである。
「本当に手に手を取って、二人で三途の川を逝ったのだよ」と云った。
事実みわと喜八郎は並べられ、手と手をつなぎ合わせてお坊さんの有り難い説教の様子を安らかに仲睦まじそうに聞いているようだったそうだ。

二人が亡くなる数か月前に私は帰郷し、叔母の家で介護生活を送っていた祖父母に会っている。
その時に祖母が「あのねぇ、他人に笑われるかもしれないけれど、この年になっても、今の様に何にも解らなくなっちゃった人だけど、ワシはお爺ちゃんが今も可愛いのよ。死んでしまうまで世話をしたいのよ」と哀しそうに話していた。

そしてその言葉通りに祖父が息絶えた後、周りの人々に挨拶をして、数時間内に「これで私の仕事は全部し終えました。少し疲れたので、横になってきます」とそのまま静かに息を引き取ったという。
身内では不評の生き様であったが、その引け際が鮮やかで、人生の後始末をして悠々とあの世に旅立った祖母みわを私はあっぱれと感じている。

私は父似、そして更には祖父似だと自分の事を思っているので、この気高くも気丈な祖母みわと同じような生き方を良い意味でも従ってはいない、が、もしかして自分と同年令の夫との死別はみわと喜八郎の様に同時と云うわけにはいかないだろうか、、と少し期待したりしてみたりする事はある。