9/01/2016

雑談日誌 ハッピーセプテンバー

"Happy September!"と朝開口一番に云うドンに「何がハッピーなんだかね」と云う私。
"Good Morning."と挨拶をする人に「何も良い朝じゃないよ」と反発してみせる嫌な人間になっちまった。
毎月月替わりに仕様が無いと思いながらも「時が過ぎるのが速い」と溜息をつく。
今年ももう後半に入ったかと思うとどうにも、何か遣る瀬無い気持ちになる。
時を有効に使っている人は山程いるだろうにね、、私は毎日ボンクラリンと暮らしている。
なーんて、暗い気持ちになっても、良い事は何にも始まらないものね。

 パテオのニャンコの後始末をしに出ると、アヒル達が餌の時間なのかと沢山集まって来た。 キオニ一匹の後始末ではあるが、近所の人の目にはウチには犬を数匹飼っていると思われているかもしれないなぁ、なんて思いながら掃除をした。 そんな私の姿を見ながら、キオニは自分が中心の私の行動であると、満足気で歩き回って、私の足元にもすり寄って来る。
ま、一応私に後始末のお礼を言っているのかしらん。気楽な者だねぇ。

この処、何故かある日の亡母との会話が思い出される。 華道の師範をした事もある花好きの母であったが、自分だけの迷信的な思いで忌み嫌っていた花々はある。 紫陽花、百合、大輪のバラ、向日葵、真っ赤な芥子の花など、どれも私の好きな花々であるが、病弱な母には迷信的ではあっても、それなりの理由があっての事だったのだろう。
「なんで、憎らしいほど、あんなに勝ち誇ったように咲いているのだろう。」というのがどの花にも共通する嫌いな理由だったようだ。 と云っても、それらの花を使って生け花を全くしない訳では無くて、お弟子さんの好みとあらば、時にはそれらを丁重に扱っていたことも私は知っている。
野の花や、ひっそりと咲いている健気で、名の知られぬ花々を愛した母は、それらに自分に対する憐みのような感情を持っていたに違いない。

私が子供の頃、母は小さな庭に沢山の花を植え育てていた。
私はそれらを何の感慨も無く眺めて育ってきたわけだが、母が他界した年齢も超えた今は、何かにつけて、母が云っていた一つ一つの花への想いが今更のように思い起こされるのは、今だからこそ出来る亡母との会話のようなものかもしれない。
特別に花好きと云う訳では無かった私が、今こうして色々な花に特別な思いを抱くようになったのは、近い将来母と再会した時にあれこれ話をしようと思っているからなのか、花への想いは生きるものへの愛おしさのようなもののようにも感じている私が今いる。

🌻🌻🌻🌻