12/04/2016

雑談日誌 老人脳の引き出しの話

パンプキンパイがスィートポテトパイであったとドンの老眼を笑うわけにはいかない。
昨日チョコチップスコーンだと思って買ってきた2箱のものは、チョコチップスではなくて、ブルーベリーだった。
ブルーベリースコーンが嫌いと言う訳では無いけれど、チョコのが食べたかったので、ちょっとがっかりした。
この年齢になると、老眼もさながら、ぱっと見の思い込みも強くて、失敗を繰り返しているわけ。

昨夜の就寝前に作家佐藤愛子女史の「老いる力」を再度持ち出して、前半の30代~50代の話を飛び越えて、68才の章から読み返してみた。
 なるほどねぇ、「痴呆よ、来るものなら来い」と開き直っているのが、女史の強がりで無い事は解っているが、なるほどねぇと改めて思ったりした。やって来るものは、来るんだからと、、、。

上記の読書に関連して、最近ある事に気がついた。 私はこの年になったせいではなくて、若い頃から人名の覚えが悪い。(ドンも私とまるで一緒で、人の名は覚えられない)
ある研究者によれば、人の名前を記憶出来ないのは個人の脳細胞の部分が発達不足であるためか、その部分に異常事態が発したからなのだそうで、老年の健忘症とはそもそもが違っているのだそうだ。
私の場合はその発達不足と精神異常状態が重なったものなのかもしれないなぁと自己判断してみた。
ともあれ、今は更に老人健忘症も増して、長年職場を共にした仲間達の名前などは、殆ど忘れてしまったいる。
ある年齢からは、脳内の記憶整頓棚の引き出しが満杯になってしまったのだろう、新しい記憶はバラバラと引き出しからあふれ落ちるがごとく散漫になり、思い出すのが困難な状態になっているらしい。
先日のある日、あれほど親しく会話を交わした仕事仲間の名前が出てこず、「ややっ、何時もの事ながら、全く不便極まりないね」と思っていたのだが、その後のまたある日に何も考えずして、不意にそのMさんの名が口に出た。
忘れていた期間から思い出した時には数か月もたっていたのが、不思議というか、そして今もその名が口に出来ると云う事は、私の脳内に何かの変化が起きたものか、この年齢独特の脳内記憶引き出しが満杯になった事で、やっと小さいながら老人引き出しを新しく設置出来たものか、バラバラ溢れてこぼれ落ちた記憶を少しずつかたずけ始めたからなのかは定かではない。(今さな私の脳内にそんな気力が残っていたとは思えないのだが)
 例え新しく出来たとはいえ、その老人脳引き出しは、かなり小さいものなのだろうと思える。
ばらばら落ち散らばった記憶をやっと拾い上げられたものものだけが、新たにこの引き出しにしまわれたのだろうか。
そうとしたら、そのまま落ち捨てられた記憶のほうが、拾い上げられた記憶よりもずっと多いに違いない。

昨年のクリスマスに義兄の一人が既に他界している事を、すっかり忘れてしまっていた私に驚いたドンは、以来私の言動に注意を払っているようだが、その記憶も今は拾い上げられて、しっかり老人引き出しにしまわれている。
どの記憶が捨てられ、どの記憶が拾い上げられたのかは、今の私にははっきりしていないのは日頃から人と会話をする機会が少ないからである。
今の私の暮らしには、何を覚えているべきなのか、何を考えても仕方がない事なのかの区別がはっきりしていないためだろうか。
この老人脳引き出しが満杯になるのは時間の問題なのかもしれないが、それまでは心身共に健在でいられるのだろうと思われる。
でも、この次に生まれてくる事があったとしたら、次は脳キャパが蜜で濃く、大きい引き出しを持っ人間でありたいものだと、私の今の小さな脳キャパは語っている。