12/17/2016

雑談日誌 クリスマスの哀しみの原因

あぁ、そういう事だったのか。と、たった今、独りやっと何やら納得した思いである。
昨年のクリスマスは、私個人の感情が不安定で、その時は単に多くの人がなるような、クリスマス・ブルーなのだろうと思っていた。
長年に渡り私には鬱の症状があり、投薬を続けているので、その時も、その何とも哀しく遣る瀬無い思いが更に強く感じられるのは、特別に原因を持つものではないと考えていた。
クリスマス・イブにはその哀しい思いはつのり、クリスマスの日には涙が自然に出てしまうという状態に、自分自身が驚いていた。
家族が集い、プレゼントを交換し、ドンが用意したデナ―テーブルを囲んでワイワイ騒がしくやっている中、しかも、孫の一人の嬉しい誕生日でもあるというのに、そんな鬱ろげな状態の私に気が付いた夫のドンは「グランマにも何か楽しい事を話しかけてあげて」と孫達に影で云っていた声が私の耳にも届いていた。
そして、ドンはずっと一日中何かと私に優しく声を掛け続けていたが、彼にも家族にも申し訳ないと思いつつも、私の憂鬱は止むことをしなかった。
私の心には「誰にも話しかけて欲しくはない」という本音が詰まっていて、どうしても笑顔で会話の対応が儘ならなかった。

どうして昨年のあの時は涙が出て止まらないほど、あのように哀しかったのかを、今年もクリスマスが近くなってきて、時々考える私であったが答えは見い出せないでいた。

そんな中、今日あるブログお仲間のサイトを開けてみて、「これだったのか」と膝を打つ思いをした。
「クリスマスが愛猫の命日」と記されていた。
私はそのブログお仲間に数年前には自分の愛猫を事故で亡くした際に多大なる慰めの言葉を受けており、あの事故時に私が発狂しなかったのは、この方のお陰でもあった。
その事故後に私は23才もの長寿を全うした他の飼い猫がいたが、それはそれで、長寿を全うしたというある種の満足感、諦め感はその時に感じただけで、それ程のペットロス症には至らなかった。

その彼女自身の愛猫が他界したのが、昨年のクリスマスであった。
私が感じていた哀しみの源が、これだったと感じた。
私は以前にも他のブログお仲間の愛猫が他界された時には、ペットロスによる彼女の哀しみがシンクロするような辛く哀しい体験をしていた。
他人はタカがペットの事で、大袈裟なと言うかもしれないが、愛猫家、愛犬家にはペットの死は本当に辛く、哀しいものだと知るところである。

今にしてやっとあの昨年のクリスマスの哀しみが理解出来たことで、今年のクリスマスは「皆はあの世で楽しくやってるかなぁ」と少しは明るい気持ちで過ごせるだろうか。
私にとってのクリスマスは誕生と他界とが交わる日である。
そしてあと何年、何回のこの接点日を迎えるのだろうか。
クリスマスに私はもう泣くまい。